自分が被害者になるというのは、相手を加害者にするということ
皆様、こんにちは。
今日は、コロナウイルスの影響で世間が自粛ムードの中、縁日みたいなことやってた巣鴨の商店街を見て思ったことを書きたいと思います。
外出自粛要請が出て2週間ほどたちました。
若者の街、渋谷は映像で見る限り、考えられないほど人が少ないですね。
そんな中で高齢者の多い町、巣鴨で縁日が開催されてたというニュースを見てびっくりしました。
インタビューに答える76歳の老人は”自分はかからないと思う。”という根拠なにもないだろ、っていう発言してますし。
自分が高齢者だったら死ぬの怖いので絶対こんなところ行かないだろうな、と思いました。
高齢者の重症化リスクは若者に比べてかなり高いにも関わらず、なぜ渋谷は人が減り巣鴨は縁日をやることになっているのだろう。
私が思うに、それは”被害者になる”ことよりも”加害者になる”ことの方が、たいていの人間は嫌がるからではないか、なんて思いました。(もちろん、若者の方がSNSなどでコロナに対する危機感をあおられることが多いから、等の理由も考えられるかもしれませんが、今回そこは重要ではないので深く考えていません。)
今回のコロナウイルスは若者はほぼ重症化せず、高齢者は重症化のリスクも死亡率もかなり高くなっています。
つまり、
若者が出歩く = 自分にはあまりリスクはないが高齢者にうつすとその人が死ぬ可能性がある行為 = 自分が加害者になる
高齢者が出歩く = うつされたら自分が死ぬ可能性がある行為 = 自分が被害者になる
という印象が強くなります。(高齢者が出歩くのもウイルスを広めてる行為には変わりありませんが。)
若者は自分のせいで誰かが死ぬのが嫌だと思い、外出を控え、高齢者は出歩いてうつって自分が死んでも自己責任であるとして危機感が薄れ、縁日の開催しそれに参加するということが起きたのではないかと考えたりしました。本当のところがどうなのかはわかりませんが。
”加害者になる”のはごめんだが、”被害者になる”のは自分は気にしないからいい。
そんな風に考えてしまう人というのは意外に多いのではないでしょうか。
しかしながら、私は”自分が被害者になる”ということを容認して身勝手な行動をすることは、むしろ”加害者になる”行為だと思っています。
なぜなら、”自分が被害者になる”ことを容認することは、”他の誰かを加害者にする”可能性の高い行為であり、”加害者になる”ということはその人の心に大きな影を落とすことになりかねないことであるからです。たとえ、被害者が加害者を許していたとしても。
要するに、この記事でお伝えしたい、そして自分でもしっかり意識したいことは、
”自己責任で被害者になることを容認するのは構わないが、それが同時に誰かを加害者にしてしまうということまで考えるべし”
ということです。
例えば、車を運転しているとき、信号無視して横断歩道を渡る自転車を車ではねてしまったとしましょう。
そして、その自転車に乗ってた人に
”私は赤信号であることを確認してたけど、急いでいたため轢かれるリスクを取って渡りました。だから、あなたには何の落ち度もありません。気にしないでください。すべて私が悪いのです。”
と言われたとしましょう。
もし仮にそういわれたとしても、たとえ金銭的な負担が0だったとしても、自分が交通ルールをしっかり守って運転していたとしても、まったく罪悪感を持たずにいられる人、自転車をはねてしまった感覚をきれいさっぱり忘れられる人はまずいないでしょう。
加害者になってしまった人の意識は、被害者の許しでなくなるものではないですよね。
この場合、自転車の方が悪いとは思いますが、それで割り切れるほど器用な人はそうそういません。
でもこの自転車の人は、
”自分が気にしてないんだから気にしないで”
と身勝手に言ってきます。
この人には、”誰かを加害者にしてしまうということは、その人に罪を背負わせることだ”という風に考える創造力が足りないのだと思います。
この例は極端な例ではありますが、日常生活においてこのようなことが当てはまる場面は他にもあるのではないでしょうか。
”相手を加害者にしてしまう”ということは無自覚にその相手に深い傷を負わせてしまうことだと思います。
そうならないよう、自分の行為がもたらす結果を、自分の視点だけでなくその周りの人の視点に立って細部まで想像して行動できる人間になりたいですね。
それでは、また。
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